愛がある批評って何だろう(・ω・)

ある方が呟いておられて ちょっと考え込んでしまった。リプライ(ツイッターでその呟きに対する返信)をしようかとも思ったんだけど
私はその方の答えを知りたい、というよりも自分の答えを知りたいんだなと思うと直接問いかけるのは違うし
そうすると結局gdgdになるのは目に見えてるのでやめておいたw自分の知りたい答えを人に言わせようとしたって無理だもの。
  

批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (2011/04/09 11:34 UTC 版)

批評(ひひょう、英語・フランス語:critique)とは、ある事象を(できるだけ無前提の思い込みを排するかたちで)判断することである。

 
批評の延長線上に批判があるのなら、「できるだけ無前提の思い込みを排するかたちで」「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。」
として欲しいなぁと思ったりしますよね。でもそれは、自分が愛する対象に対してはそう思うけど全てにおいてそう考えるのかというと
どうだろう。読み物としての面白さを優先させた場合、ちょっと極端に走った方が面白かったりしますよね
冷静な批評ができるテイでめっちゃバイアス(考え方などが他の影響を受けて偏ること)かけまくるとか。
 
私自身は、そういった極端な話をする場合にはそれを一々説明します。性格がお節介で心配性だからです。
スマートじゃないなぁ、読み手を信頼してないなぁ、とは思いますがほんとこっちのがもっと根深いのかもしれないですねぇw
読み手に誤解させたらそれは自分の責任だと背負っちゃうんですよね。そこを避けたい。
 
極端に貶したり、誤解されること前提で褒めちぎったりするのはでも反対意見がでてナンボだと思うから
それするなら、そこの受身は上手に取って欲しいよな〜とは思うんですよ。
そこを楽しませるためじゃなかったの!?って、じゃあなぜ言った!?と思うんです。

賛否両論でるような提案があったら、その後の対応をみたい。そこで自分は好悪決めるかな
荒れたコメントに誠実に返事しろ!とかではなくて、そういったものは釣り行為だと思うので
釣果の見せ方をみてみたい。反応を見越した決め打ちだったかそこで判断させてもらってる。
 
 
最初に戻りますが、愛があるかどうかは良い反応も悪い反応も請け負う前提があるかどうか
そういった事で私は判断しているようです。
そして、そういったことを愛だとしてそれがあった方がよいのかどうかはまだ分からない。
愛と責任を置き換えて論じている気もしますし。とりあえず、今のところの考えをまとめてみました。
ね、ほらgdgdになったw